ハイデラバードの歴史 - ムガル帝国統治(1687年 - 1724年) - ニザーム王国(1724年 - 1948年)
ゴールコンダ王国滅亡後、ゴールコンダ王国の領土はハイダラーバード州としては広大なムガル帝国領の一州としてとなり、そのためこの地域一帯はハイダラーバード地方とも呼ばれた。
1724年、ムガル帝国の有能な将軍ミール・カマルッディーンは帝国に見切りをつけて、彼の軍隊を率いて旧所領であるデカン高原へ旅立ち、アウランガーバードに拠ってアーサフ・ジャー1世として独立を宣言し、ニザーム王国を建国した。その後、1763年(あるいは1752年11月)にアウランガーバードからハイダラーバードへと都は遷都され、ハイダラーバードが王国の名を関することもあった。
ニザーム王国の統治領域は、現在のアーンドラ・プラデーシュ州域にほぼ相当する。ニザーム王国の統治期に、ハイダラーバードは、大いに近代化された。電力、鉄道、航空路の整備、巨大な貯水池建設を含む幾つもの灌漑プロジェクト、そしてオスマーニヤー大学をはじめとする高等教育機関が創立された。歴代のニザーム家当主は偉大な建設家であり、モザームジャーヒィー・マーケット、オスマーニヤー市民病院、ハイダラーバード高等裁判所、ハイダラーバード州立中央図書館、ハイダラーバード州議会議事堂、ジュブリーホール、パブリックガーデン等の公共施設は、彼らにより建設された。
かつてのゴールコンダ王国は、西洋人の入植地やその勢力圏拡大を厳しく制限していた。一方、同王朝を滅亡させて、インド亜大陸に覇権を確立したムガル帝国は、新興勢力であるマラータ族鎮圧に忙殺されてしまった。
この機にヨーロッパ勢力は、徐々に治外法権のある広大な入植地を奪取し、勢力圏や権限を強化し始めた。ニザーム家の統治時代には、フランスとイギリスがインド亜大陸内に強大な勢力を確立し始め、ニザーム王国へもアーサフ・ジャー1世が没すると同時に干渉し始めた。彼の逝去後、6人いた彼の息子の三男、サラバット・ジャングが跡目相続をめぐる混乱を制した。この係争中、フランス全権代表であるブッシー将軍は、彼を支持した見返りとして、広大な領地を手に入れることに成功した。しかしその後ブッシー将軍は、ポンディシェリー駐在中の1756年に、ロバート・クライブ率いるイギリス軍と戦火を交えて敗北し、イギリスに主導権を奪われてしまう。
この戦いの後、イギリスはマドラス行政管区の勢力圏を、現在のアーンドラ・プラデーシュ州領域にまで拡大することに成功した。ニザーム家は、その後も藩王国として独自通貨の鋳造権、立法権、そして臣下の裁判権を有していたが、その地位は徐々にイギリスの陪臣へと落ちていった。
1947年の印パ分離独立後、多くの藩王国はインド政府に併合され、ニザーム藩王国もインド政府かパキスタン政府のいずれかへの帰属をせまられた。ムスリムであるニザーム家は、ヒンドゥー教徒主導のインド政府に参加する事には否定的だったため、現状維持とする暫定協定を結ぶ。しかし、インド亜大陸中央部に広大な藩王国領を持つニザーム家が、パキスタンの飛び地として独立してしまうことをインド政府は極度に警戒していた。
1948年にインド政府は、経済封鎖によりニザーム家を追いつめ、同年(1948年)9月19日にインド政府軍をハイダラーバードに派遣した。ニザーム家当主ミール・オスマーン・アリー・ハーン(アーサフ・ジャー7世)は成すすべなく降伏、かくしてインド亜大陸最大、そして最後の藩王国はハイダラーバード州としてインド政府に強制併合された。
当初、ハイダラーバード州はマドラス州の一部だったが、1953年に新州境の確定時にテルグー語圏であるとしてマドラス州から切り離された。このハイダラーバード州は、後に形および広さに多少変化があったものの、インド政府初の言語圏基準による州境線を持つアーンドラ・プラデーシュ州として、州政府の権限を与えられた。2014年、アーンドラ・プラデーシュ州からテランガーナー州が分離したことにより、同州の州都も兼ねることとなった[6]。
参照元:Wikipedia「ハイデラバード」